ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

われ、あり 上

 「多様性」の一語は、私の観測するかぎりでは、自身や多数派とはことなるところに所属する人々を認めよう、というほどの意味のなかに押し込められています。就職活動の前線にて、「外国人」や「障碍者」が、言うなれば「わが社の多様性を証明するもの」として、お弁当に添えるプチトマトのごとき扱いを受けているのを見ました。これらはすべて「多様性」の誤用です。なぜなら、認めてやるという態度はおかしなものだからです。

 「外国人/障碍者/セクシャルマイノリティ……に寛容な社会」に多様性はありません。寛容とは許しを与えることであり、対等な関係にある二者には縁のないもののはずです。「いろんな生きかたがあってよい」はしぶとく消え残るフレーズですが、生きかたによいも悪いもなく、判断を下す資格はだれにもないと私は信じます。

 「いろんな生きかた」に対しては、認めようと認めまいと人の数だけたしかに存在するという事実を念頭に置き、自身の信じることがらが偏見にすぎないことをわきまえたうえで偏見を持つこと、これが私の考える最適解です。私の唯一の関心事は、愛する人が私のありかたをどう受け止め、どうあるかということであり、ほかのだれがなにを愛そうと愛すまいと、私をきらおうと、言うべきことはなにもありません。