ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

卒業論文を出した日

 「ごくろうさまでした」と、製本屋の店員さんにほほえみかけられ、深々と頭を下げてから来た道を戻るとき、私は品のよい紺色のハードカバーを思わず抱きしめていました。喉をつまらせて泣くことはできなくもないような気がするほどの、感傷をもよおしたのでした。しかしそのしめっぽさは持続せず、結局のところ泣かないほうを選びました。胸元で冷気にさらされている薄手の冊子がうつくしく見えるのは、あくまで着実な手仕事と労いのおことばのためだと知っていたからです。論文のなかみや自身の取り組みかたを顧みれば、むらむらとわきおこるものは、自棄をおびた笑いに変わるでしょう。4年間勉強をして、書いたものはこれか、といいたくなる前に、トートバッグに隠しました。

 面影橋駅のそばにある瓜生野製本まで、高田馬場から神田川沿いを歩きました。ほんのりとなまぐさく、愛くるしい鴨が棲んでおり、眠りにいざなうようなせせらぎの音が格別によいところです。雑踏と雑踏のすきまを、私はたいへん好みます。大学に着くと、あいかわらず彩度が高すぎるのを感じ、二度と立ち寄ることのないすきまを思い出して涼むことにしました。地下深く、日の当たらない書庫、いちめんの緑を望む窓際、先生と長いこと立ち話をした柱の陰。泣くことはできなくもないような気が、ふたたびしてくるのでした。