ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

とむらい

 ツイッター社が「休眠アカウント」削除の意向を示したさい、故人のアカウントの保存を求める反発の声が多く寄せられ、ほどなくして削除は取りやめにすると決まった。私はユーザーの意見が大企業の決定を覆したことにかなり驚いた。

 ソーシャル・ネットワーキング・サービスのユーザーは、オーナーからいわば間借りをしている立場にある。しかもツイッターの利用に料金はかからないから、居候とでも呼んだほうが正確かもしれない。サービスが長期にわたり持続すれば、追い出さないかぎりその頭数は増え続ける。大英断を下したツイッター社は、いまごろじゅうぶんな部屋と安全の確保に頭を抱えているだろう。

 私の死後、アカウントはどうなってもよい。改竄や内部情報の流出は免れたいが、そのまま残ろうとすっかり消えようと、どちらでもかまわない。葬式や墓もいらないといつも言っている。ほしがる人があれば任せる。それらは私ではなく、のこされた他人たちのためにあるからだ。休眠アカウントの削除を惜しむ騒動を見て、私のなかで「社会性」の一語の意味が膨張した。アカウントの保存は、なき管理者の意向とは無関係に、生者によって切望されたのだ。いちど放たれたことばはもはや、あるじの所有するところにとどまれない。