ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

子供の領分

 春から会社員になり、そろそろ引越しも考えはじめました。新しい生活に慣れるまでピアノはお休みします。と、発表会にて司会が読み上げる挨拶文を書き出した。虚偽の申告をしてはいないが、情報がいちじるしく不足している。つまり、現在の私は会社員をしていない。おしゃべりな先生にはそのことを伝えなかった。

 二〇年前に私をレッスンに連れ出し、その後も最良の聴き手でありつづけた心配性の祖母にも、無職になったと話すわけにはゆくまい。同居しながら経歴を隠し通していることには、われながら感心する。さっさと白状すれば、白昼堂々、階下に押しかけて練習もできたのだけれど。祖母は今年も花束を渡しに来てくれるという。

 年の瀬、最後になるかもしれない舞台で弾くのは、いちばん好きなドビュッシーにしようと決めていた。小学生のころ楽譜を買い与えてもらった『子供の領分』から数曲。作者が溺愛する娘におくった小曲集だ。当時は、がむしゃらに鍵盤を叩くと、聴衆がほほえんだ。いまは違う。子供の領分に大人が踏み込むには、それなりの作法というものがある。速く、しかしあまり速くなく。タッチをやわらかく、芯はつよく。おどけて軽妙に、指先に神経を集中させて。あらゆる矛盾を抱擁した音楽に、私は幼い日から惚れこんだままである。